薄明りの午前5時半、ホテルからレンタカーを走らせ法観寺五重塔を望む有名な坂道へと足を向けた。
早朝の静寂に包まれた歴史ある風景を独り占めできると期待していたが、到着してみると意外にも結構な人がいた。
午前6時前に着いたぐらいではぜんぜん三文の得をしない。
ただ早朝なのでコインパーキングは余裕で空いている。使ったのはここ。
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朝焼けに染まる多国籍の顔々
坂道には、既に多くの人々が集まっていた。特に目を引いたのは、外国人観光客の姿だ。西洋人と思しき観光客たちは、朝の柔らかな光の中で静かにスマホカメラを構えていた。彼らの眼差しには、日本の古い街並みへの敬意が感じられる。彼らのスマホはカメラのシャッター音を消せるので、この神聖な雰囲気を壊すまいとする配慮が伝わってくる。
一方、中国人と思われるグループもそこかしこに点在していた。彼ら彼女らの様子は西洋人たちとは対照的だ。
グループの中で交代で一人が被写体となり、残りのメンバーがカメラマンとなって撮影している。被写体となった人物は、まるで自分が主役の映画のワンシーンであるかのように振る舞っている。気取って虚勢を張るような姿勢で、美しい背景に向かってポーズを取る様子は、いささか滑稽で思わず苦笑してしまう。彼らの話し声や笑い声が、早朝の静けさを破る。早朝往来禁止という行政処置がくだらないとも限らない。
この対照的な光景を目の当たりにし、文化の違いを肌で感じる。同じ景色を前にしても、その楽しみ方や表現方法が大きく異なることに、旅の醍醐味を感じずにはいられない。
清水寺:変わらぬ姿、移ろいゆく光景
法観寺からほど近い清水寺へも足を運んだ。修学旅行以来40年ぶりに訪れる清水寺の舞台に立つと、懐かしさと新鮮さが入り混じる不思議な感覚に包まれる。眼下に広がる京都の街並みは、記憶の中の景色と重なりながらも、わずかに異なる。
舞台からの眺望は相変わらず素晴らしい。早暁の街が放つ光の具合は格別だ。朝靄に包まれた街並みが、徐々に朝日に照らされていく様子は、まるで千年の時を超えて、古の都が目覚めていくかのようだ。
しかし、この感動的な光景も長くは続かない。みるみるうちに観光客が増えていく様子には驚かされる。7時を過ぎる頃には、もはや写真を撮る余裕すらなくなるほどの人出となった。早朝に訪れた甲斐があったと、つくづく感じるがそれでももっと早く来るべきだった。
千年の時を越えて
40年前と街の建物がほぼ変わっていなさそうなことにも驚く。
我々歴史好きの日本人も、西洋人も感動するのは、この不変の姿だろう。太古の昔、数百年あるいは1000年も前に建てられたものが、時に焼失しながらも再構築され、現代までその威容を示している。そこに住む人々が脈々と生活しながら守り続けてきた歴史の重みを感じずにはいられない。
外国人、特に西洋人が感動し、我々日本人も心を打たれるのは、この連続性にある。ヨーロッパの古城や大聖堂と同様、いや、それ以上に日本の寺社仏閣は生きた歴史として存在している。単なる観光名所ではなく、今もなお信仰の場として、また地域の中心として機能し続けているのだ。
清水寺の舞台に立ち、遠くに見える山々の姿が昔と変わらぬことに気づく。時の流れを感じさせつつも、変わらぬ自然の姿に心が安らぐ。40年前、初めてこの景色を見た時の興奮が蘇り、胸が熱くなる。
残る古き良き姿、そして現代の影
ベタな観光地は好みではないが、街が見事に昔風に残っていることには感銘を受けた。町家の連なる路地、石畳の道、そして軒先に吊るされた提灯。これらの風景は、まるでタイムスリップしたかのような錯覚を起こさせる。
しかし、その美しい景観に泥を塗るかのように、ところどころで目にする光景がある。公衆トイレやゴミ箱の周辺に無造作に散乱する飲食のゴミ。
おそらくは敬意を払わない一部のシナ人や朝鮮人観光客の仕業だろうと、勝手ながら想像してしまう。日本の美しさや清潔さに感動する観光客がいる一方で、それを台無しにする者もいる。この対比に、グローバル化がもたらす課題を垣間見る思いがした。
変わるものと変わらないもの
今回の早朝散歩で、京都の魅力は変わらないものの、その楽しみ方や訪れる人々は大きく変化していることを実感した。SNSの普及により、かつては穴場だった場所も今では多くの人が訪れる人気スポットになっている。
しかし、そんな中でも、清水寺の舞台から見る景色のように、時を超えて変わらない美しさもある。建物は修復され、周囲の環境は多少変化しても、その本質的な価値は失われていない。それどころか、世界中の人々に認められ、愛される存在となっている。
京都は、千年の時を越えて変わらぬ姿を見せる一方で、現代のグローバル化がもたらす光と影も映し出している。この街の本質的な魅力は、そうした時代の流れの中でも脈々と受け継がれてきた歴史と文化にある。早朝の京都を歩くことで、その魅力を肌で感じることができた貴重な体験だった。
これからも、この街の新しい魅力と懐かしい風景を楽しみ続けたい。そして、この貴重な文化遺産を、次の世代へと引き継いでいく責任を感じずにはいられない。京都は、過去と現在、そして未来をつなぐ、まさに生きた歴史書なのだ。
だが、先祖の遺産として残っている街並みを切り売りするようにインバウンド需要に売り続けるのはいかがなものか。悪貨は良貨を駆逐するの例えどおりだとすると、今は公衆トイレやごみ置き場の周りだけが荒れているが、破壊を目的として訪れるアジア人はだんだんエスカレートしてくるのではないか。
なにか対策をしてこの美しい街が後世まで残るようにするべきだと思う。
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