このページで紹介する宿場は中山道69次の起点である日本橋。
江戸方(東京)から京方(京都)へ向かって残っている史跡、または残っていないものも紹介しています。
中山道史跡専門のガイドブックのように活用できるよう心がけて編集していますが、特に個人的興味は江戸時代の中山道なので東山道時代または明治期以降の史跡についてはあまり関心を払っておりません。
史跡ポイントの紹介はできるだけ日本橋方面から京都に向かって載せるようにしています。
各宿場の境は中山道69次資料館館長 岸本豊氏の著書を参考に設定しています。異議・異論ある方いらっしゃいましても暖かくスルーしてください。
写真はタップまたはクリックするとすべてとはいえないかもですが拡大表示されるようにしています。
中山道69次起点日本橋情報
基本情報
板橋宿10.5km←|→ほか千住宿(日光街道)10km、品川宿(東海道)8km、内藤新宿(甲州街道)7kmなど
引用元:Amazon.co.jp: 中山道69次を歩く 究極の歩き方120(改訂版) : 岸本 豊(中山道69次資料館長): 本
江戸城あるのと各大名の江戸屋敷があるので本陣等は無し。
無料駐車場
たぶん無料の駐車場はありません。
各史跡について
できるだけ江戸方面から近い順または見て回りやすい順に掲載しているつもりです。また位置情報は記事下の地図にまとめて入れておくのでご参考ください。
取材日
東京にはちょくちょく家族とドライブがてら遊びに行くのでつまみぐいのように数か所ずつまわるつもりでいる。
- 2024年1月20日
- 2024年8月23日
- 2025年1月2日
写真とコメント
それぞれの位置情報は記事下の地図を参照してほしい。日本橋付近は大東亜戦争時の空襲で当時の建物はほぼ残っていない。よって跡地に碑があればラッキーといったところでなにか古めかしい建物や一里塚は期待できない。
八丁堀の与力・同心組屋敷跡
標識が立っている。八丁堀の与力・同心といえば必殺仕事人の中村主水(藤田まこと演)を思い出す人も多いのではないだろうか。あれは架空の話ではあるがああいう同心たち、現代で言えば警察の巡査たちの寮または公営住宅のようなものがあったと想像する。
八丁堀という堀があったが現在は埋められているらしい。
関係ないけどもう一枚は与力同心組屋敷跡から東京駅方面へ歩いていく途中にあるアンダーパス。
歌川広重住居跡
歌川広重は幕府の御用浮世絵師だったようでいわば公務員、っていうか武士はほとんど公務員だったわけなんだけど。中山道69次の浮世絵の大部分はもちろん「東海道五拾三次」や「江戸名所百景」などを残した。
その他ここの場所では婦人良薬「實母散」発祥の地碑と中橋狩野家屋敷跡碑などある。
江戸秤座跡
北町奉行所跡【東京都指定旧跡】
ものすごく見つけにくいところにあったが、東京駅の八重洲北口からするするっと行けるっぽかったのと、周辺のビルの中も突っ切って行けたっぽい。
名水白木屋の井戸【東京都指定旧跡】
ビル工事中につき未確認(2025年1月2日)
日本国道路元標(複製)
現在の日本橋(国重文)は明治44年製らしい。結構古い。親柱の文字は徳川慶喜筆、道路元標の文字は佐藤栄作筆。
江戸開府以来、江戸が日本の中心であり、五街道の起点であるここ日本橋が現行法ではこの日本国道路元標には法的根拠はなく日本の道路の中心地のシンボルという記念碑的な意味でここにある。
日本橋親柱の筆跡は徳川慶喜筆
この日本橋の筆跡は徳川慶喜のものになるらしい。
日本橋北詰から東を向いた浮世絵描画地
日本橋魚河岸跡
江戸前の寿司といえば江戸湾で捕れた魚しか認めないという話は過去に聞いたことがあるが、その昔は江戸前の魚を庶民も普通に食べていたなんて今では考えられないことだ。
三浦按針住居跡碑
三浦按針のことは改めて説明するまでもないが、このあたりは昭和初年まで安針町と呼ばれてたと書かれている。
日光街道分岐点
大伝馬本町通りが旧日光街道。長崎街道から植樹した楠がある。そして奥に伸びている道が旧日光街道だ。
本町薬問屋発祥の町碑
ここらへんには今でも武田薬品工業を始めとする大手製薬会社が軒を連ねているところに歴史の面白さを感じる。
長崎屋跡
代々長崎屋伝右衛門が営んだ薬種問屋長崎屋はスーパー長崎屋とは無関係。駅入口横に標識。
長崎屋も薬種屋であったが長崎のオランダ商館長の定宿でもあった。オランダは日本との独占貿易を許可されていたため商館長や通訳や医師などが大名と同様に参勤していたとのこと。
とはいえ諸大名と違い義務ではなかったため経費の都合で江戸中期からは年一ではなく4年に一度に変えたようだ。
随行したオランダ人の中には教科書にも名前のあるあのシーボルトもいたようで、彼らの滞在中は日本の蘭学者や医師などが通い、この地は鎖国時代における数少ない西洋文明との交流の場だったという。
今川橋跡碑
このあたりで売られていた焼き菓子が現在今川焼として知られているらしい。当地の名主今川前右衛門の姓より今川橋と名付けられ、中山道や日光街道方面への旅人が日本橋を発して最初に渡る橋がこの今川橋だったという。
御成道(筋違門跡)
かつてここらに筋違橋がここに架かっていて大名行列は筋違橋を通り庶民は昌平橋を通ったという。
昌平橋
近くに湯島聖堂ができてから孔子誕生の地である山東省昌平から昌平橋と呼ばれるようになったが、その前までは一口(いもあらい)太田姫神社元宮の近くなので一口橋と呼ばれていた。神田川に架かる140の橋※昌平橋
湯島聖堂の孔子像
儒学者林家の私塾を徳川綱吉がここに移設した。孔子像としては世界最大
天野屋
甘酒のお店。初代は丹後国宮津から弟の仇討ちで江戸へ来てここで茶店を開いたのが起こりで、現代は1軒だけ残る糀の室を持つ。地下6mにある糀室は千代田区指定有形文化財。
正月で人が多すぎて肝心の天野屋全景が写せなかったので次回行ったときに撮る。
天野屋の位置
仙台堀
神田神社 (神田明神)
元は将門塚の地にあったが江戸城増築にともない鬼門に移された。正式名は神田神社。
かねやす
標示「本郷もかねやすまでは江戸の内」 兼康祐悦が乳香散という歯磨き粉を売出しあたったのがもと。昔はここを堺に家並みが変わり郊外となったようだ。
赤門(国重文)
加賀藩上屋敷の御守殿門。11代目将軍家斉の何番目かの娘が前田家に嫁いだ記念に建てられたそうだ。
旧中山道追分と追分一里塚跡【1】
標識あり/日光御成道との分岐点。ちなみに角の高崎屋酒店は1751年創業というから驚き。
将門塚
平将門は桓武天皇4代の皇胤。一族の抗争が関東一円を巻き込む騒乱になり藤原秀郷らにより討伐された。その恨みが強すぎて首だけ関西からこちらまで戻ったという伝説。吉川英治の小説読むとそんなに悪いやつじゃないどころかかなりいい奴というかけっこうお人好しという印象が残る。
将門塚の位置
個人的に未踏破な史跡
- 上記写真のないもの
個人的に行ったまたは行っておきたい地点のマップ
地図のダウンロード方法はパソコンで地図部分右上の[ ]みたいなのをクリック→地図を別画面で表示→左サイドバー上にある点(・)3つをクリック→地図をコピーまたはKMLをダウンロードでできます。
地図をコピーを選ぶと自分のGoogle Driveに地図がコピーできると思います。KMLでダウンロードをしたあとはそれをCSVに変換する方法は検索して調べてください。
参考にした資料
上記の他にもみどころいろいろ書かれている。
中山道69次を歩く 究極の歩き方120(改訂版)
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←板橋宿10.5km
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